新説・日本書紀⑭ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)7月21日 土曜日
景行天皇① 卑弥呼の死後の乱の正体
豊国の土蜘蛛を北伐
247年、帯方郡の太守に王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から仲が悪く、使者を魏が治める帯方郡に遣わし、攻撃されている様子を伝えた。この報を受けて、帯方郡からは国境警備の属官が、女王への使者に詔書と黄色の旗を持たせて、倭へ派遣した。
ただ248年、事態は悪化する。世に知られる魏志倭人伝の一節だ。
「卑弥呼以て死し、大いに冢を作る。径百余歩なり。殉葬する者奴婢百余人なり」
魏志倭人伝には、卑弥呼の死後、代わって男王を立てたが、国中が従わず殺し合い、当時千余人が死んだ。そこで卑弥呼の一族の娘、台与という13歳の少女を王とすると国がようやく治まったと記されているが、この乱を表しているのが、景行天皇紀にある「熊襲と土蜘蛛の反乱」であろう。記述に沿うと、大分県から田川地域に残る地名と符号しているのが分かる。
垂仁天皇の皇子、景行は日向国(宮崎県)から碩田国速見邑(大分県速見郡周辺)で速津媛を帰順させ、現地の土蜘蛛を退治して北上する。菟狭の川上(大分県宇佐市の駅館川周辺)の鼻垂、御木の川上(同県中津市、豊前市、上毛町を流れる山国川周辺)の耳垂、緑野の川上(添田町深倉の深倉川周辺)の麻剥、高羽の川上(田川市の彦山川周辺)の土折猪折の各土蜘蛛を退治した。
田川市夏吉の若八幡神社に祭られる神夏磯媛も、磯津山(香春町鏡山四王寺ケ峰)の賢木を抜き、「八握剣・八咫鏡・八尺瓊」を枝に掛けて、帰順した。
景行は狗奴国の王か
景行が進んだ宇佐から香春に至るルートは、不思議と神武天皇の第2次東征とほぼ同じだ。また、神武の死後、後を継いだ手研耳命はわずか3年で暗殺された事実もある。狗奴国が邪馬台国と対立していたことや、北伐の地が邪馬台国の領土だったことと重ね合わせると、景行は狗奴国の男王卑弥弓呼ではないか。
景行は香春を治めた後、豊前国の長峡県(行橋市の長峡川周辺)に進み、行宮を建て京と呼んだ。現在の京都郡の起源となったその行宮は、行橋市とみやこ町にまたがる御所ヶ谷神籠石にある景行神社だ。
北伐はさらに続き、海石榴市(行橋市長尾の椿市小学校付近)、祢疑山(北九州市小倉南区の貫山)の土蜘蛛を滅ぼす。柏峡の大野(同区の朽網)に宿った。そこに大石があり、天皇は誓いを立てる。「私が土蜘蛛を滅ぼすことができるなら、この石を蹴る時に柏の葉のように上がれ」と。蹴ると石は大空に上がり、「踏石」と名付けた。現在の朽網の帝踏石だ。北伐のルートにはまさに足跡が色濃く残っている。
ところで、「緑野の川上」の土蜘蛛については、日本書紀と異なる現地伝承がある。添田町史にある「緑川の話」だ。
景行天皇の皇子日本武尊の軍勢が、彦山川の上流に勢力をはる土折居折の軍を破って、血みどろ川と呼ばれるようになったという。土折居折が日本武尊から討たれた伝承は田川市猪国の猪膝地区にもあり、土折居折を斬った太刀を洗った太刀洗の井戸が同地区の道路脇にある。
土折居折を退治した人物が、なぜ日本書紀景行紀では景行、これらの伝承では日本武尊なのか。この謎については、次回で明らかにしたい。
次回は8月4日に掲載予定です
神夏磯媛が祭られる田川市夏吉の若八幡神社
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